グランパルティータ公開練習

日時2007年4月11日(水)14時30分開始
会場ウィーン国立音楽大学 Anton von Webernplatz C0113
演奏ウィーン国立音大 管楽器奏者のメンバーの皆さん
指揮宮野谷 義傑
演奏曲目モーツァルト セレナード「グラン・パルティータ」

私がウィーン国立音大で聴講で自分が振る機会がないことにふつふつしている私を見かねて、後閑さんというクラリネット奏者の方が機会を設定してくださいました。

グ ランパルティータはバセットホルンが必要で、かつ管楽アンサンブル(+コントラバス)で1時間弱ということで、なかなか演奏する機会のない曲ですが、シン フォニーに匹敵するほどの内容があり、モーツアルトらしい繊細な旋律美に溢れた名曲です。ウィーン国立音大の学生の皆さんはさすがに音色が素晴らしく、 オーボエの1stにはトーンキュンストラー管弦楽団元首席奏者のHertel さんがご協力下さり、2時間半ほどの時間でしたが、久しぶりに音楽を表現すること、コミュニケーションをとることの楽しさ、難しさを体感することができま した。反省点も多々あり、修正して今後に生かしてまいりたいと思います。

2007年4月のご挨拶

ローマ歌劇場
こんにちは。ここ数日、ウィーンでは色とりどりの花が咲き始め、野鳥が一斉に囀り始めて本格的な春の訪れを感じさせます。今年の冬は暖冬だったので、 雪が苦手(積もると走行不可能)かつ寒がりの私には本当に助かったのですが、寒い地域ならではの「春の喜び」は体験できなかったように思います。ベートー ヴェンの「苦難を乗り越え歓喜へ」という感覚は、無論彼の人生によることが大きいのは言うまでもありませんが、やはり気候によるところも大きいと思いま す。もし、ベートーヴェンがイタリア人で、もしくはイタリアに住んでいたら・・あの曲は書けないに違いありません。

かく言う私は、大学の休みを利用して1週間ほど、イタリアに旅行に行ってきました。残念ながらオペラのシーズンではなかったのですが、バロックの巨匠モンテヴェルディとヴィヴァ ルディ・多くのオペラ作曲家(ヴェルディ、プッチーニ、ドニゼッティ・ベッリーニなど)の活躍したイタリア、ドイツ・オーストリアの作曲家の憧れの地で あったイタリアを体感しにいくことが主な目的でした。ヴェネツィア、ミラノ、ローマ、ナポリ、シチリア島、移動費も宿泊費もぎりぎりまで抑えながらの旅で したが、南北イタリアの人情・風土の違い、それぞれの魅力を肌で感じることができました。イタリア3大歌劇場にもいきました。

しかし、私は ここで敢えて苦言を表明せざるを得ません。パリの時も感じましたが今回はそれ以上に、車椅子にはあまりに厳しい環境でした。街が古い、石畳であることは無 論承知しています。でもできるところから少しずつ改善して、積み重ねていかねばならないと思います。歩道と車道の間の段差が高い、歩道が狭い上に路上駐車 があまりにも無造作でまともに通れない、石畳はぼろぼろになっても張り替えないためがたがた、地下鉄には一つもエレベータがない。首都ローマにバリアフ リーのホテルがほとんど皆無(インフォメーションで聞いても車椅子を受け入れられるホテルは「超高級ホテル以外はない」と答えられた。)。少々段差がある 駅やホテルも、日本であればスタッフの方が助けてくださるが、こちらではそのサービスもない。こちらから頼んでも断られる。(周囲の心ある方が手伝ってく ださることが多いのは申し訳なくもあり、また心からありがたいことだと思う)車椅子トイレも満足に車椅子が入れるものは少ない。手すりはないものがほとん ど。鍵が壊れていたりものすごく不潔であったり、使用する人への気配りが感じられない。世界中でバリアフリーが叫ばれて久しいにもかかわらず、改善しよう とする姿勢が全くないのは残念至極です。日本と同様に「少子高齢化」に悩んでいるとはとても信じられない。障害者の浮浪者が多いのも悲しい現実でした。

2月に日本に帰った時、雨の中どうしてもバスに乗らなくてはならない用事があり、車椅子対応のマークはあるけれどノンステップではない通常のバスに、乗客の 方に車椅子を持ち上げてもらって乗せていただきました。その時、そのバスに乗り合わせた乗客の一人が「車椅子が乗れる設備のないバスに乗るのは人の迷惑を 考えない行為だ。身の程をわきまえて出歩くことは控えなさい。」と私に向かっておっしゃる方がいました。確かに皆さんに手伝っていただくことは、本当にご 迷惑をかけることで私も申し訳ないと思っています。障害者であることに甘えてはいけないと思います。しかし、無論、私は一人間として、出歩くことも、雨に 濡れないためにバスに乗ることも権利として持っています。私は偶然身体に障害を得ましたが、これは誰しも例外なくそしていつでも起こりうることです。明日 我が身が、もしくは自分の愛する人が同じことを言われてどう思うでしょうか。

バリアフリーというのは、まさしくその「自分と置き換える」と いう精神によってこそなりうるものだと思います。私は車椅子ですが、目の見えない人、耳の聞こえない人、心に障害のある人、その人たちの気持ち、目線は正 確には分かりません。でも、想像することこそが大切であり、他人事ではなく明日は我が身かもしれないという気持ちが大切なのだと強く思います。

私は人の心や物的なバリアに遭遇すると付添いや周囲の人に面倒をかけ情けない思いにとらわれますが、、自分の夢のためにも、同じ苦しみを持つ人のためにも最期まで決して負けまいと思います。

日本の人はよく「日本のバリアフリーはなってない」とおっしゃいますが、日本のバリアフリーがヨーロッパより劣っているということは決してありません!身障 者トイレの中の設備の配置まで真剣に考える日本人の気配りは本当にすごいと思います。(ただ唯一バスは低床バスの割合はヨーロッパの都市の方が日本の都市 より多いと思います)日本は、今の状況に自信を持って、更に世界の指針として、高齢化に悩む地方都市までバリアフリーを進めてもらいたいと思います。(ちなみに、以前も申し上げましたが、ウィーンの交通網のバリアフリーは相当進んできています。念のため。)