2020年5月のご挨拶


2月の高津市民オーケストラの皆さんとのコンサートではたいへんご好評いただき、3月には誕生日のお祝いメッセージもいただき、早く皆様に御礼を申し上げなければと思っておりましたが、あまりの未曾有の出来事に言葉も出ないとはこのこと、どうしても筆が進まないまま、桜の季節も過ぎ、新緑の季節になってしまいました。草木も虫も野鳥も、自然の営みは粛々とその季節のうつろいを謳歌している一方、私達人類は、春を迎える前から世界中で出口の見えないトンネルに入ってしまいました。しかもそのトンネルはいつ自らの上に崩れてくるかもわからない。その先が潰れてるかもわからない。不安のどん底のまま2ヶ月以上が過ぎようとしています。2020年新年を迎えたときに誰がこんな状況を想像し得たでしょう!


毎朝、目が覚めると、スマホでニュースを確認してしまう癖がついてしまいました。「ああ、随分怖い夢を見たな・・」で終わってほしかったなといつも思ってしまいます。新型肺炎は自分が感染者かもわからない、いつ重症化するかもわからない、いつの間にか周囲の人にうつしてしまっているかもわからない、治療方法もわからない、検査も治療も受けられるかもわからない、いつ薬ができるかもわからない、抗体が機能するかもわからない。緊急事態もいつ終わるかもわからない、何を持って終わりとするかもわからない。経済、食料受給もいつまで持ちこたえられるかわからない。右を見ても左を見ても、分からないことばかりですから誰もが不安になるのは当然です。微熱や頭痛、倦怠感だけでも「死」が脳裏をよぎるほど不安になる事態が来るなんて思いもよりません。そもそも「一瞬先は闇」、人生はまさかの連続、なにが起こるかわからないものだからこそ、今を大切にして生きていこうと思って生きてきました。東日本大震災を身を持って経験した私達は「日常」や「普段」がどんなに脆いか分かっていたはずだけれど、いつのまにか明日も今日と変わらない一日が来る、「日常」に慣れてしまっていたのだなと思います。当たり前のことが当たり前にできる。「日常」がどんなにありがたかったか、どんなにか脆いものか、失ってからいつも気づいてしまうのです。今の自分があるのも決して当たり前ではなかったのです。障害をもった自分を明るく力強く育ててくれた両親、家族、そして人生をより豊かな時間にして下さった恩師、友人の皆さん、音楽の素晴らしさを体感させて下さった音楽の師匠、そしてオーケストラの皆さん、活動を支えてくださった多くの皆さんに心から感謝を申し上げたいと思います。

私は、指揮者として、この世にオーケストラのための美しい音楽が星の数ほどあること、そしてオーケストラの皆さんと一緒に音楽をできるということがこんなにも幸せだったのだと改めて噛み締めています。指揮者は一人では音楽はできません。一緒に作って下さる方々がいてこそ、初めて音楽作りができます。リハーサルやコンサートにはどうしても「三密」(密閉・密集・密接)が音響やアンサンブルの都合上欠かせなません。(インターネット上でのアンサンブルはどうしても時差が発生します。)コロナ禍は指揮者にとってまさにどうにも活動できない事態なのです。オーケストラの皆さんと音楽づくりができるのは一体いつになるのでしょうか。この自粛・自宅待機は、感染拡大防止のために必要不可欠であることは先刻承知ではありますが、「不安や悲しみの中にいるときこそ、「音楽」は多くの人の心に勇気や慰めをもたらすことができる」そう強く信じているからこそ、非常にもどかしく、どうしても悔しい思いが溢れてしまいます。この状況がいつまで続くのか、いつまでもつのか、常に大きな不安に苛まれています。

しかし!!!不安や絶望が深ければ深いほど「魂の叫び」である「音楽」は輝きを増すのです。過去の偉大な作曲家達は、今の普通の生活では考えられないような不安や恐怖、絶望を通して、数々の音楽を生み出してくれました。わずかではありますが印象的な音楽をご紹介します。もしご興味をお持ちになられましたらぜひ聴いてみてください。stay home の一助となれば幸いです。

・1768年、当時ヨーロッパ中で大流行し致死率20~50%という天然痘にわずか11歳で感染し、一時危篤に陥ったモーツァルトは、奇跡的に命をとりとめ、治癒後自身初めてトランペットとティンパニを編成に加え、生命感溢れる交響曲第7番を書きました。

・1809年、ナポレオン率いるフランス軍に包囲されたウィーンでは、中心部まで砲撃が及び、パトロンであった貴族たちは次々疎開し収入は断たれ、住居のすぐ間近に砲弾が次々と着弾する激しい轟音と地響きの中、ベートーヴェンは地下室にこもり、決して精神は屈しないといわんばかりに力強く輝かしいピアノ協奏曲第5番「皇帝」を書きました。

・1839年、生涯を通じて肺結核に苦しみ、たびたび流行するインフルエンザにも悩まされていた(当時は治療薬なんてない!)ショパンは、療養のため訪れたマヨルカ島で高熱に苦しみ、死の恐怖にも怯えながら有名な「雨だれ」を含む「24の前奏曲」を書きました。

・1903年、「荒城の月」「箱根八里」を作曲後。念願のドイツ留学を果たすも、わずか5ヶ月で肺結核にかかり、無念の帰国をした滝廉太郎は、23歳の若さで自分の死が近いことを悟り、ピアノ曲「憾(うらみ)」を書き、言葉にならない怒りや悔しさを音楽にぶつけました。

・1918年、2歳の時、免疫系の気管支炎にかかり短命を宣告され、さらにクローン病という難病も抱えながら、美しい音楽を残した女性作曲家リリ・ブーランジェは、まだ24歳の若さで死の床につき、もはやペンも持てない状態の中、口伝えで姉に書き取ってもらいながら「ピエ・イエス」という悲しみと静けさに満ちた祈りの音楽を残しました。

・1936年、時の権力者スターリンによる大粛清によって、友人、親戚が次々と逮捕、処刑され、ソビエト機関紙で「体制の反逆者」と烙印を押されたショスタコービッチは、次は我が身という不安と恐怖の中、命がけで緊迫感に満ちた交響曲第5番「革命」を書きました。

上記にご紹介した以外にも、シューベルトやシューマン、スメタナ、シベリウスなど、深い悲しみや絶望の中で音楽を書いたであろう作曲家は枚挙の暇がありません。今のように医療も確立されていない、衛生面も治安も情報伝達も私達の生活環境とは全く比較にならないような厳しい状況下です。そうした中で不治の病、戦争、粛清などに瀕し、「死」への恐怖、不安や絶望、突き抜けた悟りのような境地などの体験を通じて生まれた音楽からは、それでも「心から溢れてくる思いを音楽として残したい」という並々ならない情熱、執念、覚悟が伝わってくるように思います。

数週間後かも知れませんし、数ヶ月後、もしかしたら数年後かもしれません、もしかしたらその前に命が尽きているやもしれません。もしそうではなく、無事にこのトンネルを抜けることができたとき、そこにはどんな景色が待っているのでしょうか?コロナ禍の前と同じような日常が待っているのでしょうか?個人でも企業でも国家でも皆、大きく傷ついています。正直、まだ想像もつきません。

今このときも、不安や恐怖の中、お仕事をして下さっている数多くの皆様、ーーー医療・介護・福祉関係の皆様、交通・輸送・販売・金融・公務員関係の皆様、農業・漁業・畜産業・製造業やゴミ収集・水道・電気・ガス・通信・インターネット・放送等、食料・ライフラインを支えてくださる皆様ーーーの奮闘のおかげで私の自主隔離生活が成り立っていることに感謝を忘れず、作曲家たちが魂を削りながら残してくれた音楽と、ベランダから見える穏やかな景色から心のエネルギーを貰いながら、苦手な引きこもり生活を送ってまいりたいと思います。最後に「三密」とは本来仏教、密教の言葉で、①身密(身体・行動)②口密(言葉・発言)③意密(こころ・考え)のことで、これらを整えることを「三密の修行」というそうです。この世界的な困難を突き抜けた暁には、力の限り、音楽によって皆様の心に癒やしや喜びをお伝えできるよう、今はじっと我慢。体力、知力、気力を蓄えて、精進して参りたいと思います。

一日も早い状況の打開と皆様のご無事を、心よりお祈り申し上げます。